◆文科系的思考法

記録は破られるためにある……というけど、どんなものにも限界はあるはずだ。マラソンにしても100メートル競争にしても、絶対的に距離がある限りタイムがゼロになることはない。だから、必ず記録はストップするときが来るし、それを否定してまで可能性を追求することはできない。ただ。その限界がどこにあるのか、われわれ人間にはそれを知る術(すべ)がない。だからこそ、記録には未知の夢があり、可能性を求めて努力する価値があるのだ。佐々木武蔵の限界はどこにあるのか、参考記録のない未来の自分へのチャレンジに妥協は禁物だ。常に最大限の努力をすることが、限界を見極める唯一の手段……。

武蔵は、解析したプログラムをまるで製図をするような丁寧さでフローチャートにまとめた。こうすれば、時間が経過しても一目でプログラム内容やアルゴリズムがわかる。無駄な努力……と無視することもできよう。しかし、武蔵には丁寧に描くことが自分の頭にキチンと保存することにつながると思えたのだ。それに、たとえ挫折して勇者になり損ねたとしても、きれいなフローチャートでも残っていれば「こういう努力をした時期もあった」と振り返ることができるではないか。どうせなら、いい過去にしたい、本気だから……。

しかし、たとえ丁寧でもフローチャートの表記法など習ったことがないから、見よう見まねの自己流だ。捜せば、当然ボロが出る。なのに、タモリ博士は「誤った描き方は絶対にしてはいけない」と、いかにも理工系的な正確さを要求した。

違うんだ。これは学校のテストじゃないんだ。フローチャートは手段であって目的じゃない。目的はマシン語だ!! 正しさよりも、自分にわかりやすいほうが大切じゃないのか。小さなことにこだわるより、カタコトでもマシン語ができるようになるほうが先決ではないのか。10年やっても会話にならない日本式英語教育みたいなこと言わないでほしい!!

……なんて強いことが言えるわけがない。なにしろ、武蔵はマ界を外側から眺め始めたばかりのド素人。何の実績もないレベル0のヒヨッコだ。かたやタモリ博士はCPUまでも設計するプロの技師。聞く耳は持たなければならない。でも、今回は知識として吸収するけど、自分の思い通りにやるからネ……。

これがチャレンジでなければ素直に忠告に従っただろう。だけど、武蔵は不可能宣言と勝負している最中なのだ。いわば、玉砕覚悟のチャレンジ……。正論よりも、自分自身が納得できるかどうかが問題だった。

一般に、理工系的な思考法では、結果だけでなく過程が重要視される。「AとBを加えたらCになった」というだけではダメで、Cになる理論的な裏付けが求められるのだ。それに比べ、文科系的な思考法は単純だ。風が吹いて桶屋が儲かるという結果があれば、それでいいのだ。実験/レポートが必須の理工系と、試験さえよければOKという文科系では、思考ルーチンに自ずと差があるもの。

では、マシン語にはどちらの思考法が適しているのか? コンピュータが理工系のものと考えれば理工系的思考だが、言語の一種と考えれば文科系的思考だ。とどのつまりは、どっちでもいいということか……。だったら、簡単なほうがいい。

エラい先生の立派な本には、プロセスの解説がやたらと多い。だけど、マシン語はプロセスの知識なしでできる言語だ。A+BはCという結果だけで十分なのだ。その事実を、文科系の武蔵が独力で発見しなければならなかったことに、マシン語の最大の難しさが潜んでいたとは……。理工系の人間には不可解だったに違いない。


※ 時は流れて……

マシン語、マシン語……と書いているが、実態はアセンブリ言語。正確には、マシン語は16進数の羅列のことをいう。いっぽう、アセンブリ言語は「マシン語と1対1に対応した英語の略語+数字」のことだ。しかし、通常はアセンブリ言語=マシン語として扱われており、いちいち区別はしていない。もっとも、最近ではでいずれの用語も希有な存在となってしまったが……。