●幻の初代ヒーロー

 私にとってヒーローといえば、知る人ぞ知る「アントニオ猪木」というのが定番だが、それは大学へ入学した1969年前後からのこと。当然のことながら、それ以前にも何人ものヒーローがいた。いつだって、凡人は強きヒーローを求め、そして憧れるものなのだ。

 幼少のころ(1950年代前半)、自宅にはテレビはもちろんのこと娯楽など何もなかった。我が家だけでなく、大半の家庭は生きることに必死の時代だ。楽しいことは、貧しさの中から工夫して探し出すしかなかったのである。

 とはいえ、どんな環境下にあっても子供は遊ぶ。近所の子が教えてくれたのだろうか、武士を知らないのにチャンバラごっこはできるのだ。あるいは古びた絵本や紙芝居、近くにあった映画宣伝の看板などから、そういう歴史観を自然に学んでいたのかもしれない。

 これは1955(昭和30)年5月21日の写真。もう少しで6歳になるころだ(左側は1歳下の弟)。この日は土曜日(←いわゆる半ドンで休日ではない)なので、仕事を終えた父親が自宅…といっても借家の狭い庭で撮ったのだろう。

 すでに終戦から10年近くが経過して、世の中も少ずつだが明るい未来が感じられるようになっていた。とはいえ、現実を見渡せば戦後の爪痕や貧しさがアチコチにあった。まだまだ裸電球の下で家族が寄り添い合って、細々と暮らしていた時代だったのだ。

 …で、ここから遡ること1年と少し前。まだ寒さと暗さが印象深いのだが、自宅にあった大きな真空管ラジオから大相撲の実況放送が流れていた。もちろん、自分では操作できないから、おそらくは子守りに通っていた近所のお婆さんがスイッチを入れたのだろう。

 この当時、たぶんチューニングをNHK第一放送にセットしたままだったせいか、ラジオから聞こえてくるのはいつも株式情報か浪花節ばかり…ということを鮮明に記憶している。どちらにしても、子供には面白くない内容だ。そんなこともあり、臨場感溢れる大相撲中継は知らない力士の取組であってもワクワクさせてくれた。

 その勝負の世界に、単に「勝った負けた」ではなく勝ちっ放しの全勝を続けていた力士がいた。それが、当時大関だった吉葉山。それ以外の情報は何も知らないけど、とにかく誰にも負けないというところが無性にカッコよく思えた。

 そして…1954(昭和29)年1月24日(日)。吉葉山は、そのまま全勝で初優勝を飾った。ワケも分からずラジオに向かって、両手で無心に拍車喝采をする4歳半のトオル君。その日から、吉葉山は強さの象徴であり、人生初のヒーローとなった。

 ところが、当時の大相撲は今と違って年四場所制。いくらラジオを楽しみにしても、相変わらず株式情報と浪花節ばかりが聞こえてくる。さらに、場所後に横綱となった吉葉山はといえば、休場が多い上に期待外れの土俵を続けたまま4年後に引退をしてしまうのだ。

 小さなトオル君にとっては、モヤモヤと不完全燃焼をさせられただけの幻のヒーローとなった。それでも、現役の間はいつかは復活するものと信じていたのだが、小学2年となった1957(昭和32)年のある日のこと。担任の福田先生が「好きなお相撲さんは?」と生徒たちに聞いたところ、そこに吉葉山の名はなく圧倒的に栃錦だった…ガ〜ン!

 そりゃそうだよネ。栃木県出身の横綱栃木山の流れをくみ、力を出せなかった吉葉山と違って何度も優勝をしているのだから。というわけで、私の初代ヒーロー吉葉山は、全勝優勝という強烈なインパクトを残し、幼少時代の忘れがたき記憶を形成しただけで、はかなくもフェードアウトして幕を閉じたのである。