人生には、生まれた時期、環境、タイミング…等々、さまざまな要素がからんだ運という自分の意思ではどうにもならないものが常につきまう。
そういうものとわかっているのに、やれ黄色い財布だ、パワーストーンだ、幸運の壺だ、神へのお布施だ、縁起物だ…と、お金の力に頼って幸運をつかもうとしたりもする。でも、本当の運はお店では売っていないんだよネ。
結局、幸運かどうかは結果に対する心の持ちよう次第。だから、現時点で生きているだけで運がよいと感じれば、それは運がよかったということになる。
あれは大学2年の秋…。当時、北海道では中古の小型ダンプが不足しており、東京から陸送をするというバイトがあった。帰りは余剰の中古セダンを需要のある東京まで運ぶ。バイト代は2万円。貧乏学生にとっては、うってつけのおいしい仕事だった。
ところが、これが本当にオンボロ車でパンクはするし、ブレーキが効かなくなったり、挙句の果てにはプロペラシャフトが落ちたり…と、次々と故障で問題を引き起こすのだ。どうりで4台セットで自動車部に頼むはずだ。これじゃ、まるで部車と同じではないか!
…そんな不満を感じながらも、2度も引き受けてしまったのは、お金をもらって北海道へ行けることに魅力を感じていたのだろう(※画像は1度目の陸送時)。
東北自動車道などまだない時代。ひたすら国道4号線を北へ向かって走り続ける。2度目ともなれば、要領も覚えてそれなりに順調だった。
時は1970(昭和45)年11月7日。場所は野辺地を過ぎてフェリー乗り場のある大間へ向かう直線道路。
突然の激しい雨…と思ったら、数分後にはアッサリと上がった。すると、行く手には大きな虹が浮かび上がる。それだけではない。その虹の橋は、この道路から伸びているではないかッ!
虹の根元がどうなっているのか、ご来光どころか天につながっているような気がして、必死にオンボロダンプをブッ飛ばす。
虹よ…頼むから消えないでくれ〜ッ!
おそらくは、こんな光景に逢うことは二度とないだろう。これが最初で最後のチャンスであることは、誰に聞かなくともわかる。何も考えずに、虹の根元に向かう。そして…到着。
キラ〜ン…という神々しい音がかすかに聞こえるような、イヤ何も聞こえない。その一帯が、ただ明るいだけだった。いうなれば、天からスポットライトを浴びているような感じだ。
それでも、その瞬間になぜか運に恵まれた人生を送れるような気がしたのだ。その運がどういうものなのかはわからない。もしかすると、ただ「すべてをよいほうに考える」という思考回路を与えてくれただけなのかもしれない。とにかく虹の根元でそう学んだのだ。
こうした精神的な運に対して、モノとして姿を見せている運の象徴もある。もちろん、それはお店で買ったり騙されて手に入れるものではない。
いつのころだろう。たぶんトレーニングを始めた小学5年生前後かもしれない。学校帰りか、それとも遊んでいるときだったと思うが、トランプのダイヤの形をした石が目に飛び込んできたのだ。当然のことながら、子供だから拾うよネ。
それこそ3センチほどの小さな石なのだが、それは宝物としてズッと机の引き出しに入れ、大切に保管してきた。そして、これもまた私の運を支えてくれている…と思い続けているのである。
正確無比な形状でないことから、おそらく人為的に作られたものではないだろう。たまたまこういう形になった石というだけで、客観的にはそれ以上の付加価値はないことも理解している。それでもなお、小さなショーケースに飾っているのは、それを幸運の秘宝と信じているからだ。
エッ、なんだか文章自体が支離滅裂で自己矛盾している…と思われそうだが、すべては結果。私の考える運とは、結果として元気であればいいのだ。だって、いつだって「元気が一番、元気があれば何でもできる!」が最大最高の幸運でしょッ!