●ジャイアント馬場よ永遠なれ!

 全日本プロレスの総帥・ジャイアント馬場さんが死んじゃった! そのニュースを耳にしたとき、肩の力が抜けるような虚脱感に襲われた。そりゃ、看板こそ「新日本プログラミング」としているが、本質は一介のプロレスファン。東洋の巨人の死にガックリこないわけがない……。

 馬場さんといえば、どうしても対抗馬の猪木さんが欠かせない。もちろん、新日本プログラミングを名乗っているからには猪木サイド、つまりアンチ全日プロと思われても仕方がないのだが、決して馬場さんの流れを否定しているわけじゃない。ただ、ギラギラ燃える闘魂は自分の人生に受け入れることができても、巨体の魅力はどうにもマネのしようがないというだけ。いうなれば、コブラツイストをかけることはできても、ジャイアントコブラのマネはできないということなのだ。
 それに、もはや「猪木の闘魂 vs 馬場の巨体」という図式での対決は、遠い遠い過去の夢物語。現在のプロレスは、そういったレベルを完全に超越した次元で闘っている。すでに新日本プロレスは猪木UFOと一線を画しているし、全日本プロレスの本流は危険極まりないほどに激しい。かつてのように、どちらかに肩入れしたくなるような明解な違いは見当たらないのだ。
 だから、現時点(1999.2.4)での強さを客観的に比較するなら、三沢が日本のトップレスラーだとアッサリ断言してしまう。ファイトスタイルにしても、話題先行型の新日プロのレスラーより川田や小橋に魅力を感じるほど。何しろ、ストイックなまでに闘魂をムキ出してプロレスに集中している姿勢が、見る者にビンビン伝わってくるのだ。ハッキリいって、これで面白くないワケがない。
 こう書くと、まるで全日本プログラミングと改名したほうがよさそうだが、要は団体名じゃなくて個人の魅力。強さを求めるハートと、パワーアップするプロセスが輝いていればいいのだ。もちろん、現在の新日本プロレスにもそうした選手はいるが、振り返れば猪木さんが闘魂を燃やして前進していたころ、馬場さんはレスラーとして完成していた。輝きというのは、発展するときのエネルギーが出す光。そうしたタイミング的なズレ、すなわち5歳の年齢差がそのまま全盛期の違いとなり、雌雄を決する時期を失った遠因となったのだろう。

 ちなみに、私がプロレスを初めて見たのは昭和33年(1958年)のころ。まだ、力道山の独り舞台という時代で、馬場さんは巨人軍、猪木さんはブラジルにいた。力道山が亡くなってから数年間は豊登がエースとして活躍し、その跡を引き継いだのがG馬場だった。
 しばらくして、崩壊した東京プロレスからA猪木が舞い戻ってきた。表面的には、A猪木とBIコンビなどと呼ばれていたが、誰が見ても真のトップはG馬場。独自の大技も、ほとんどがそのころ開発されたものだ。おそらく、あの時代がG馬場の強さの黄金期といえるだろう。もちろん、私もG馬場を最強と信じて疑わなかった。だからこそ、A猪木は日本人対外人というそれまでの常識を覆して、トップの座を目指して挑戦したのだ。
 しかし、その当時の日本プロレス幹部はこれを「時機尚早」としてアッサリつぶしてしまった。その処置には大いに失望したが、結果的には挑戦者の美学のほうがファンのハートをつかむもの。馬場さん自身は「会社が試合をOKすれば受ける」という煮え切らない態度だったが、ここで試合が実現していれば、どちらが勝っても日本のプロレス界は違った道を歩んでいたに違いない。
 ともあれ、こうした流れの延長線上に新日本プロレスと全日本プロレスがあり、その影響で新日本プログラミングも存在しているのである。改めて、猪木さんの闘魂の原点である偉大なジャイアント馬場さんに敬意を表したい。合掌。

1999年2月5日 記