●プロレス業界暴露本って?

 プロレスといえば、昔から八百長とかインチキという非難の声が絶えなかった。過去においては、それゆえに正面から「プロレスが好き!」とは言えない時代があったのは厳然たる事実である(←私は最初から平然と公表していたが)。
 しかし、あらゆるスポーツにおいて勝敗しか重要視できないのは、見る側のレベルが低いことを物語っているようなものだ。だって、本当に面白いのは「どっちが勝った!」ということではなく、どのようなプロセスを経て自己表現のスタイルを築いたかにあるからだ。その個性の中に、例えばインチキの流血があるとすれば、万人の観衆の中でバレないだけのテクニックを磨かなければならない。さすがに八百長を肯定はできないが、そこに観客を魅了するものがなければ、自分のステータスが落ちるだけである。

 格闘技の中でも、プロレスほど自由度の高い競技はない。だから、いくらでも個性を発揮する余地がある。それは、得意技であったり、絶妙な反則攻撃であったり、常人離れした身体であったり、コスチュームであったり、ミステリアスな部分であったり、闘魂という精神面のものであったり、金網や電流爆破などという舞台演出であったり、コミカルな笑いの表現であったり……と、きわめて知的センスが求められる世界なのだ。
 そういった知的センスを生かすには、その裏側で血のにじむようなトレーニングをしなければならない。そこには、たとえ試合内容がどうあろうとも、一般人には絶対に真似のできない本物のスポーツ空間がある。もちろん、現実にはステロイド(筋肉増強剤)などの暗い部分もあり、純粋なスポーツ空間とは言い難いのだが、そういう意味では一流のオリンピック選手だって薬物とのいたちごっこを繰り返しているのだ。つまり、手段のよい悪いは別にして命がけで取り組んでいることだけは間違いない。

 それらを前提として踏まえた上で、プロレスほどトレーニングというプロセスの役割を明快に教えてくれるものはない。例えば、常人離れした握力の強さや、鉄槌と称されるほどの頭の堅さを見せられれば、それだけで百の説法以上の説得力がある。
 ましてや、人知れず腕立て伏せをやり、ダンベルを上げ、ランニングをすることは、プロレスの背景にある純なスポーツだ。なのに、近年の元プロレス業界人たちの節操のなさ。なんじゃい、これは!?
 自分が業界にいる間に騒ぐなら、そこに正義感を感じ取ることができる。しかし、やめてからとやかく言うのは、魂胆が見えすぎて見苦しい。だいたい、本当に好きなものに対して内部に入ってはダメなのだ。美人女優はスクリーンの上だから美しいのであって、その裏側を見れば人間としての醜い部分が露呈してしまう。そんな実像を暴露して、いったいどうしようというのか? 非難すべきは、同じ穴のムジナだった自分じゃないのか? その自分が無罪放免なら、暴露した内容なんて他愛のないことだろう。

 人間というのは、何かに向かって進んでいくプロセスが大切なのだ。だからこそ、作られた虚像に憧れ、虚像の「いいとこ」だけを目指して努力をする。そういうプロセスを生きがいというのだ。憧れを越えて虚像に近づき、挙句の果てに実像を知って落胆して暴露……なんていうは、他人の生きがいを奪うだけのこと。人生論として情けない。
 そんなわけで、この手の書籍は最初から読まないのが鉄則。読んだところで、どうせ不愉快になるだけなのだ。まさに5カウントで収まらない反則行為そのもの。かくして、プロレス界は反則の痛みを味わいながらもリングに勝ち残り、反則負けを喫した暴露本は「無知な観客を盛り上げる」という役目を終え、あだ花のように消え去るのである……。