■ナナフシ……珍しくないですヨ!

 ときどき近況報告などをしてくれる山口県在住のT氏から、数ヶ月前に「総帥はナナフシを見たことがなかったんですね。この辺りは田舎なので、ナナフシなんて珍しくない普通の虫ですよ。昨日だって夜に車で出るときに、フロントガラスに15cmくらいのナナフシがくっついていました……」というメールをもらったことがあった。

 改めて思ったのが、珍しいとか、感動、驚き……といった感性は普遍的ではないということ。沖縄に住んでいれば雪を見るだけでもスゴいことだけど、かといって北海道の方から「雪、ちっとも珍しくないですよ!」と言われても、どうにも返答に困ってしまうだろう。モノゴトの基準、視点というのは、あくまでも本人の経験や環境に左右されるものである。
 もちろん、あれ以降ナナフシに出会っていない私には、ちょっぴりうらやましい情報であったし、今年もまた見かけたいと思ったのだが、そのいっぽうで知らなかったことへの優越感を逆に感じていたのも事実である。
 なぜかというと、これまで長期に渡って「忍法ナナフシ」でワクワクできたのは、ただひたすら無知なる知識のお陰だからだ。知らぬが仏というけれど、ときには「知らないでよかった!」ということもあるようだ。
 ちなみに、あの『伊賀の影丸』で徐々に背景に同化して消える術は、村雨兄弟以外では第四部『七つの影法師』に出てくる幽鬼がダントツに印象的だが、術の解明は「忍法ナナフシ」のときだけ。そういう意味でも、私にとってのナナフシは永遠に「忍法ナナフシ」のモデルなのである。

 こうした知識・経験に限らず、一般的に標準というのは「自分が基準」となることが多い。一昨年夏に大学時代の部活仲間と久々に会ったのだが、卒業後も体育会系的トレーニングを継続しているのは単細胞の私だけ。みな過去は過去として決別し、年齢に応じたスタイルを築き上げていたのであった。
 別れ際に、仲間の一人がほぼ当時のままの体型の私に「自分のことを標準と思うなヨ!」と、さも「標準はわれにあり」という口調で語った。その口調は昔と同じで気にならないが、標準でないとはおだやかでない……というわけで、しばらくして市の健康診断を受けることにした。
 身長・体重測定に始まって、心電図、血液検査、尿検査、大腸がん検査……。結果は、すべてが標準であり「異常なし」であった。
 すなわち、標準はこちらにあったのだ。ということは、彼の標準論を尊重すれば「標準が異常」で「異常が標準」ということになってしまう。これでは、日本語として「標準」の解釈が崩れてしまう。

 そんな話をすると、笑ってくれずに真顔で真意を解説してくれる人がいる。ア〜、違うんだなァ。ここで突っ込んでくれなかったら、せっかくのボケが無残に散ってしまうではないか。会話の標準スタイルも人それぞれだが、相性とはこんなところにあるのかもしれない。
 たかが「忍法ナナフシ」で、ここまで話が飛躍してしまうと標準の感性とは言い難いけど、これが新日本プログラミングの標準。書いているうちに、自分で自分に催眠術をかけてしまい本筋がどこかに行ってしまうのだ。ア、これって「忍法ナナフシ」ならぬ「文章ナナフシ」みたい。