☆ 米丸クンのムムムッ! ≪初出『マシン語マスターバイブル』'91.10月発行≫

 珍しい……と思ったことでも、単に知識の乏しさに由来していることは少なくない。大学に入ったばかりの井中文太(いなか・もんた)は、クラス名簿から「米丸」という名字を発見した。

 大学というところは、全国から学生が集まってくる場所だから、聞いたことのない名字があっても不思議ではない。落語家の桂米丸を真っ先に連想させるこの名字は、落語だけでなくとぼけた味のラジオの司会なども好きだった文太には、妙に親しみを覚えさせたのであった。
 そんなわけで、学内では結構仲が良かったのだが、いかんせん授業のほうには神出鬼没の人物だったので、漠然と九州出身ということしか知らなかった。
 大学2年の夏。文太は、憧れていた九州へ一人旅に出かけた。そのとき、九州に住む別の友人が「そういえば、米丸クンが市来(鹿児島)にいるから行ってみれば!」とそそのかした。
 当てのない一人旅。それに、珍しい名字だから住所がわからなくても大丈夫だろう。文太は、気楽な気分で市来駅まで列車を乗り継いだ。だが、市来駅で尋ねてみると、その名前なら隣の東市来駅に間違いないと言われ、再び列車に飛び乗り東市来駅へ……。
 そこで、電話帳を見て驚いた。すぐにわかると思ったら、なんと米丸・米丸・米丸……のオンパレードではないか!?
 商店のオバさんに聞いても、当然のことながら米丸だけでは決め手がない。どうしよう……と困っていたとき、買い物をしていた別のオバさんが「そういえば、米丸先生の息子が東京の大学へ行ったんじゃなかったかな」と起死回生のアドバイス。そうだ、確か父親が校長をしていたと聞いたことがあった!
 こうして、文太は無事に彼の家にたどり着き、暖かい歓迎を受けたのであった。そんな米丸クンも、今はどこで何をしているのやら、まったく音信不通となってしまったが、この名字だけは文太の頭から消えたことがない……。


≪時は流れて……2007年9月≫
 当然のことながら、未だに米丸クンとは音信不通。捜し出してみたい気もするけど、この程度の印象では相手に対して失礼だから、ソッと想い出としてしまっておくことにしている。
 こういうのも、長い目で見ての一期一会というのかもしれない。回数的な出会いとしては一度ではないけれど、人生というロングスパンで見れば瞬間的な接点。そもそも一度の出会いに、時間や場面を限定する制約などないのだ。それだけに、気づいたときに一期一会だったと思える出会いは、人生の貴重な宝物といえるだろう。
≪さらに時は流れて……2011年11月≫
 1・2年のときは必修科目用のクラス(私はイ組)があったが、3年からはすべてが選択科目となりクラスとしてのまとまりはなくなる。その代わりにゼミが集団を形成し、集大成として卒論(ゼミ論)が課せられるのだ。ただし、文太のように体育局に属しているとゼミも卒論も免除される(←40年前の話で現状は不明)。
 これだけでもクラスの仲間に出会う機会は激減するのに、卒業を1年遅らせてヨーロッパを放浪していたのだから、相当に印象の薄い異端な存在だったに違いない…という自覚はあった。
 それでも、たった一人だけ細々と年賀状でつながっていたクラスメイトがいたのだ。このクモの糸のような関係が、11月12日に有志で開催された同期会参加へと発展したのだから奇跡に近い。
 懐かしくも変貌を遂げた顔・頭髪・体型…はまるで初対面のよう。名前だけが唯一の記憶となり、思わず他人行儀で挨拶をしてしまうほど。これぞ年月がかもし出す微妙な雰囲気だが、それがまた心地よい気分にさせてくれるから、アラ不思議…。
 そんな中に、なんとかの米丸クンがいたのですヨ。衝撃のウルトラ・ミラクル的感動の再会…って感じで、うれしかったねェ…元気でいてくれて。驚いたねェ…同じ埼玉県人になっていたなんて!
 あの夕陽に沈む美しい東市来の海岸をバカ話をしながら散歩したこと、父親の勧めてくれた焼酎を結局は恐ろしくて一滴も飲めなかったこと、翌日にはわざわざ桜島まで案内してもらったこと…。自分だけの孤独な記憶が41年の時を経て共通の記憶に戻れたのだ。人生とは、なんと壮大でロマンあるドラマを事もなげに演出してくれるのだろう…。