雑念がまったくないとき、目をつぶると深い霧にスッポリと包まれたように真っ白な状態が浮かび上がる。これを称して無念夢想という。
やがて、1本また1本とノイズが入り、ついには番組終了後のテレビのように、ガチャガチャにノイズが入ってしまう。こんなもんだよ凡人は。ノイズがあるから夢も見れる。そこに生きがいがあるんだ。悟りを開いた坊さんの姿は、生きる仏ではあっても人間本来の動物的パワーは感じられない。
何かに向かってまい進している人って輝いているね。ああいうのを青春っていうんだ。青春とは若いときの想い出なんかじゃ決してない。自分がチャレンジしているとき、そのプロセスにいることが青春なんだ。
現代においては、そういうチャンスは社会人になってしまうと激減する。なぜって、青春しているサラリーマンなんて、サラリーマンの中じゃ典型的な落ちこぼれだから……。キラキラ輝きながら出世している人なんていないのサ。欲望ギラギラか、疲れてグタグタが出世の条件かもしれない。だからこそ、若さ=青春と解釈されることが多い。
その昔、キャンディーズという女の子3人のグループ(歌手)がいた。彼女たちの解散コンサートで、男性ファンの一人が「キャンディーズはぼくたちの青春なんです」と涙を流していたことがあった。
バカだね、他人に青春をかけるなんて。どんなに熱烈なファンでも、自分の青春は自分にかけなきゃァ。だって、キャンディーズに青春をかけていたのは、他ならぬキャンディーズのメンバー3人だったんだから……。
チャレンジってのは、達成するとそれですべてがオシマイ。どんなにプロセスがつらく苦しいものであっても、その瞬間にひとつの青春は燃焼してしまうのだ。
そのホッとした短くも空虚な時間。ターゲットが大きければ大きいほど、その落差も大きい。そして、再びチャレンジに値する新しいターゲットを探すため、暗中模索の新たな闘いが始まるのだ。
そこから這い上がろうとするパワーが消滅したとき、案外、簡単に無念無想の境地になれるのかもしれない。だとしたら、そんなものは老後の楽しみに取っておけばいい!