■ ご挨拶:第98回(2024年12月24日)■

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 本日のご来場、まことにありがとうございます。毎度のことながら、やりたいことが山積して大忙しの日々が続いています。さらに、この夏以降は新規の事業…じゃなくて「新規の道楽」が動き始めたことで、身体も脳内も大混乱。まるでメダパニの呪文にかかったかのようです。

 とはいえ、忙しさとは行動の優先順位に起因する問題ですから、優先トップになれない雑務が多数あるというだけのこと。ライフスタイル的には、従来と同じ「のんびり人生」のまま地道に推移しています。早い話、遅延に対する責任逃れの言い訳…それを人は「忙しい」と偽装するのです。

 どんなに多忙でも、収入と無縁なところが道楽の道楽たる所以です。ということで、節約志向で大好きなジュースを果汁100%から20%(←銘柄指定:小岩井純水みかん)にランクダウンしました。

 ところが、飲んでビックリ…酸味と人工的な甘さがさっぱりしておいしいのです。それは、学生時代に好き放題には飲めなかった「噴水型ジュース自販機」の味を彷彿させるものだったのです。もちろん、当時とは成分的に全く異なるのでしょうが、こうして昭和のテイストが脈々と続いているところにうれしさを覚えたのでした。

 昭和といえば、若き日にヨーロッパを放浪する大義名分で通った例の英会話スクールで、最初に隣席で親しくなったのがスイスから来たウルスです。日本の「イツ」に興味があるという話が理解できず、その問答だけで会話が続いたのです。

 最終的には、川端康成の名前が出て伊豆(IZU)をドイツ語読みしたというオチですが、4つ年下のウルスが伊豆のどこに…と疑問だけが残っています。というのは、口調は穏やかでもロングヘアーに無精ひげ、怠惰そうな雰囲気で、第一印象は放浪のヒッピー。これが、純真な踊り子をイメージさせる伊豆と似合わなかったのです。

 さらに、とある休日に近く(ヘイスティングス:Hastings)のお城を見学に行ったとき、なんと同じクラスの日本人女性(Etsuko)とデートをしていたのです。運命を感じる偶然の遭遇でしたが、これによって第二印象はプレイボーイと相成りました。

 日本に戻ってから数年後、そのウルスから結婚をするという手紙が届きました。そのお相手は、あのときの英津子(Etsuko)さん。単なるプレイボーイではなかったのです。ということで、第三印象でようやくジェントルマンになったのでした。

 それから半世紀。何度か親しく往来していましたが、もう20年以上会っていません。そんなお二人が、移住先のニューヨークから久々に来日するという連絡がありました。しかも「ぜひトオルに会いたい!」と言われれば、行動の優先順位がトップになるのは必然の流れでしょう。すべての雑務を排して、滞在している横浜のホテルまで出かけました。

 そこで見たウルスは、治療困難な難病のため車椅子での移動を余儀なくされ、体調もお世辞にもよいとは言えない状態でした。飛行機で日本まで来れたのが、奇跡と思えたほどです。それでも、あの日あの時のブライトンでの話題になると、想い出話に大いに花が咲いたのでした。

 まるで絵に描いたような諸行無常の世界です。ふと目を移せば、ホテルの窓から大型クルーズ船が停泊している大桟橋が見えています。そこは、1973(昭和48)年6月23日…大きな不安と夢を抱きながら、シベリヤ経由でブライトンへと旅立った忘れじの港なのです。

 なんだか想い出が脳裏を駆け巡って、しんみりとセンチになりそうですが、人生は常に前へ前へと進むことしかできません。ということで、冒頭の「新規の道楽」が改めて登場します。

 それは、独力で解体した「お離れ」の跡地に、ミニ体育館(←トレーニング道場)を建設したということです。建てたのは、もちろん地元の建築業者さん。いろいろと紆余曲折があって、計画から数年の月日を要してしまいましたが、とにかく全力で夢に向かった結果です。

 Where there is a will, there is a way.

 昔から大好きな言葉です。しょせん個々の人生なんて、他人からすれば道楽みたいなもの。それぞれが、それぞれの意志で、それぞれの道を探し求めて、ひたすら歩み続けているのです。



〜〜〜〜 ちょっと一言ご挨拶(2025.5.22)〜〜〜〜

 ブライトンでの英会話スクールから50年以上…。外人コンプレックスは消滅したけど、肝心の英語力のほうはというと、結局は簡単な日常会話止まりでモノにはならなかった。普段の暮らしで使うこともないし、すでに人生のエネルギーは別のベクトルへ向いている。

 それでも、まァ何とか楽しく雑談をすることができたのだから、何はともあれブライトンへ行った価値はあったような気がする。いつだって共通の思い出話で笑い合うのは、それだけで楽しい時間となるからネ。ということで、ウルスの今昔物語…。

 おっと、その前に意味不明の「イツ」への返答について。混乱の極みとはいえ「When(いつ)のことか?」「Chair(椅子)のことか?」「Five(5つ)のことか?」と…もうメチャクチャ。本当に日本人かと疑われかねない珍問答なのであった。面白過ぎて今でも忘れられない光景だ。

 そもそもヨーロッパへ向かうキッカケは、すでにどこかで記したように1974(昭和49)年に自動車部が創部40年となるので、それを祝して同世代で海外遠征をしよう…と話し合ったのがすべての始まりだった。

 そのためには全員が留年をしなければならないが、それでも1973(昭和48)年では1年前倒しの記念事業となってしまう。単に海外への憧れから派生した思いつき企画なので、そんなことを指摘する者は一人としていない。その時点で、計画そのものが「テキトー」だったのである。

 それを裏付けるように、就活解禁日となったとたんにどこ吹く風でスーツを着て会社回りを始める同期の仲間たち。唯一「オイオイ…話が違うんじゃないの?」と思っても、他人の人生に介入することまではできない。ならば…と、たった一人で放浪の旅を決意したのであった。

 そこから先は、英国大使館へ行って資料を集めたり、すべてを自分の力で行動し計画を立てなければならない。元来、他人任せで荷台に乗るだけという人間にとって、これは大変な知恵と労力を要する難題…のはずだったけど、実は新鮮な体験ばかりで楽しかったなァ…。

 そういう行き当たりばったりの中から、ブライトンでの英会話スクールやホームステイ先、そして当時の最安ルートであるシベリア経由のヨーロッパ行き日程が決まったのである。もちろん、その間にも運転のアルバイトをして費用を稼ぐ毎日。大桟橋を見ていると、そんな懐かしい日々が走馬灯のようにグルグルと巡ってくるのだ。

 あの当時は、海外へ行くこと自体の感覚が現在とはまるで違う。豪華で高額なパッケージ旅行もあるにはあったが、個人で行くとなると一種の冒険と同じ雰囲気があったのだ。それだけに、そんな無計画の旅行をする若者が増えてきた時代でもあった。

 だからこそ、写真にあるように家族や友人がわざわざ見送りに来てくれたのだ。紙テープと蛍の光の中での旅立ち…そんな別れのシーンをイメージをしていたのだが、出航直前に一人の旅行者が甲板から地上に落下して救急車を呼ぶ事態に。おまけに突然の雨で、夢に描いたようなお別れとはならなかったが、それらを含めて大桟橋が忘れじの港となっているのである。