とりあえず、腕立て伏せについては10月後半から350回に増やしてみたのだが、なんだかチマチマしていて自分自身が情けない。そこで、12月から一挙に400回にしてみたものの、腕の疲労感からすれば似たり寄ったり…。
ならば…と、新年の初筋トレはご祝儀を兼ねて500回に挑戦。心地よい筋疲労は、おそらく身体が違いを感じたのだろう。その後、従来の400回に戻したところ、今度は妙な罪悪感ばかりで心地よさがない。ということで、数字的にもキリのよい500回に落ち着いたのであった…当面は。
エッ、なぜに「当面は」となっているのかというと、これまた数字のバランスで腹筋運動の600回と不一致だからだ。いつの日か、これを一致させようという気になるかもしれない。そんな気まぐれに対する本能的な逃げ道が{当面は」なのである。
それはそうと、およそ50年ぶりに訪れた神宮球場…。
さすがに以前よりはきれいになっていたけど、基本的なレイアウトは昔と同じで変わっていない。
何よりこれがうれしいのだ。過去を懐かしむ人間にとって、同一感があってこそ安心できるのだから。
新型コロナ以降、久々の観客席での応援復活。それも花の早慶戦ということから、試合前から大勢の人がウロウロしていた。
それでも、外野席のほうは見るからにガラガラだったから、世間的にはまだ自粛ムードが抜け切れていなかったといえるかもしれない。
試合のほうは、終盤に逆転ホームランが出て早稲田の勝利。勝敗には執着していなかったけど、やはり勝てば勝ったでうれしいものだ。
試合後は、勝利チームから先に校歌を歌う。その後にゾロゾロと退席する人が多いのも、昔と同じ光景だ。
ちなみに、二戦目と三戦目は慶応が勝利している。
そして、実はこの日…学生時代にかぶっていた往年の学帽を紙袋に入れコッソリと持参していたのだ。
とはいえ、試合中はどうにも恥ずかしくてかぶれない。そこで、帰り際に意を決して記念にパチリ。
年月を経て帽子が縮んだのか、賢くなって頭が大きくなったのか、それとも元々サイズが合っていなかったのか、いずれにしても「小さいッ!」というのが久しぶりにかぶった印象だ。それでも、かぶれば学生時代のことがグルグルと脳裏をめぐる…。
当時の自動車部では、体力強化が主役のような夏の軽井沢合宿に対し、運転練習そのものを主眼とした冬の館山合宿というものがあった。
練習ドライブ中は、ドライバー以外の下級生はトラック(いすゞTX)の荷台で移動させられることが多い。
このとき、キャビンと荷台の幌との隙間から顔を出すように命じられるのだ。今ならパワハラだが、すべては細かい規制のない昭和40年代ならではのエピソード。
ある夜のこと。真っ暗闇の砂利道を走行中に、この学帽が揺れと風で後方へ吹き飛ばされてしまった。あわててキャビンを叩いてトラックを止める…。
右側には、大きな岩がゴロゴロしている深い川。左側は背丈ほどの石垣。どこに飛ばされたのか、皆目見当がつかない。
かくして、行き先不明となった小さな黒い学帽を、懐中電灯を頼りに全員で捜し回るハメになったのであった。たかが学帽、見つからなければいくらでも買うことはできる。それよりも、時間通りに練習日程を終えることのほうが重要なのではないか。
いつしか、もう無理だから諦めようとか、早朝に明るくなってからまた捜そう…という声が聞こえてくるようになった。しょせんは、どうでもいい個人の学帽…。
だけど、持ち主である私にとっては別だった。ここは一人置き去りにされても、イヤたとえ退部を余儀なくされても捜し続けなければならない。そんな決意を上級生に意思表示した直後に、なんと自分の目で発見した。
学帽は、川の中でも、道路上でもなく、左側の石垣の上にチョコンと鎮座していた。その姿は、まるで発見されることを待っているかのように、お行儀よく正面を向いていた。
なぜ、そこまでヨレヨレの古い学帽にこだわっていたのかというと、それは永遠に「自分のものではない!」という意識が強くあったからだ。
初代の持ち主は、同じ大学/学部出身の父親。子供のころから、服入れ茶箱に保管されていた記憶があるので、たとえ譲り受けても感覚的には借り物でしかない。どうりで、私の頭とサイズが合わないわけだ…と、今ごろになって気づいたのであった。