本日のご来場、まことにありがとうございます。猪木さんが亡くなって以来、何人もの古い友人や知人から心配…というか心境を問われることがありました。エ、何で…???
関係者ならともかく、ただ尊敬の念を込めて応援していただけなのです。しかも、そんな話をしていたのは何十年も前のこと。どうして相手の記憶にあるのでしょう? 知らず知らずのうちに、心酔しているというオーラが出ていたのでしょうか?
確かに、猪木さんの試合はテレビの前で正座をして見ていました。プロレスの裏側における日々のトレーニングを、自身のトレーニングにオーバーラップしていたのも事実です。常に夢とロマンを追い求める人生は、もちろん「迷わず行けよ」の精神そのものです。そして、その背景にあるのは、いつだって「燃える闘魂」です。
アレ…これではバレバレですかね。とはいえ、これらは「猪木さんから影響を受けた」というよりも、持って生まれた感性が似ていたような気がします。だからこそ、それを形にして表現した猪木さんに、プロレスの枠を超えて共鳴したわけです。
ただ、正確には過去の自分には持ち合わせていなかった感性が1つだけありました。奇しくも、後に某国会議員による迷言とも重なるのですが…。
「二番じゃダメなんですか?」
これこそが、猪木さんから最初に学んだ哲学です。朝夕を犬と走ったことで、中学のころから長距離走が得意になったのですが、本格的な練習はしたことがありません。
そのため、中学では野球部の亀井君、高一/高三は野球部の湯之上君、高二は小池君…と、いつもクラスで二番という存在でした。大学の自動車部でも同学年では二番手でした。そして、それを自分なりの実力と素直に受け入れていたのです。
私が大学へ入学した1969年。春のワールドリーグ戦で猪木さんが初優勝を果たしましたが、世間的にはジャイアント馬場が真のエースでした。猪木さんは二枚看板のエースではあっても、興行としてのトップは馬場さんだったのです。
これは、強さというよりも「どちらが客を呼べるか」の論理だからです。身長という誰の目にも明らかな魅力に比べ、精神的な闘魂はそのままでは絵になりにくいのです。
しかし、猪木さんの考えは違っていました。翌年に続いて1971年も次点優勝となったとき、なんと馬場さんのチャンピオンベルトに挑戦したいと表明したのです。私にとって、二番じゃダメという考えを初めて知った瞬間でした。
当時の日本プロレス幹部は、これを「時期尚早」として却下しました。これまた、初めて実用を耳にした四文字熟語でしたが、この一歩を踏み出した勇気に「猪木さんはスゴいッ!」と大いなる感動を覚えたのでした。
ちなみに、それはすぐさま1971年の夏合宿における県境マラソンにつながります。二番手で満足するのではなく、トップになるという大きな目標となったのでした。
もちろん、夢に向かうためには努力は必須。連日のように、全力で1,500mを4本走って…ということで、その結末と思わぬライバルとの争いは、ご挨拶集(第75回)で触れた通りです。
振り返ると、一人でヨーロッパを放浪したのも、カーメイトに強引に入社させてもらったのも、不可能宣言をされたマシン語を習得したのも…みんな「迷わず行けよ!」の精神と思えるものばかりです。やっぱり、猪木さんは…世界一スゴいッ!!!