■ ご挨拶:第93回(2023年1月26日)■

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 本日のご来場、まことにありがとうございます。猪木さんが亡くなって以来、何人もの古い友人や知人から心配…というか心境を問われることがありました。エ、何で…???
 関係者ならともかく、ただ尊敬の念を込めて応援していただけなのです。しかも、そんな話をしていたのは何十年も前のこと。どうして相手の記憶にあるのでしょう? 知らず知らずのうちに、心酔しているというオーラが出ていたのでしょうか?

 確かに、猪木さんの試合はテレビの前で正座をして見ていました。プロレスの裏側における日々のトレーニングを、自身のトレーニングにオーバーラップしていたのも事実です。常に夢とロマンを追い求める人生は、もちろん「迷わず行けよ」の精神そのものです。そして、その背景にあるのは、いつだって「燃える闘魂」です。

 アレ…これではバレバレですかね。とはいえ、これらは「猪木さんから影響を受けた」というよりも、持って生まれた感性が似ていたような気がします。だからこそ、それを形にして表現した猪木さんに、プロレスの枠を超えて共鳴したわけです。

 ただ、正確には過去の自分には持ち合わせていなかった感性が1つだけありました。奇しくも、後に某国会議員による迷言とも重なるのですが…。

「二番じゃダメなんですか?」

 これこそが、猪木さんから最初に学んだ哲学です。朝夕を犬と走ったことで、中学のころから長距離走が得意になったのですが、本格的な練習はしたことがありません。
 そのため、中学では野球部の亀井君、高一/高三は野球部の湯之上君、高二は小池君…と、いつもクラスで二番という存在でした。大学の自動車部でも同学年では二番手でした。そして、それを自分なりの実力と素直に受け入れていたのです。

 私が大学へ入学した1969年。春のワールドリーグ戦で猪木さんが初優勝を果たしましたが、世間的にはジャイアント馬場が真のエースでした。猪木さんは二枚看板のエースではあっても、興行としてのトップは馬場さんだったのです。
 これは、強さというよりも「どちらが客を呼べるか」の論理だからです。身長という誰の目にも明らかな魅力に比べ、精神的な闘魂はそのままでは絵になりにくいのです。

 しかし、猪木さんの考えは違っていました。翌年に続いて1971年も次点優勝となったとき、なんと馬場さんのチャンピオンベルトに挑戦したいと表明したのです。私にとって、二番じゃダメという考えを初めて知った瞬間でした。

 当時の日本プロレス幹部は、これを「時期尚早」として却下しました。これまた、初めて実用を耳にした四文字熟語でしたが、この一歩を踏み出した勇気に「猪木さんはスゴいッ!」と大いなる感動を覚えたのでした。

 ちなみに、それはすぐさま1971年の夏合宿における県境マラソンにつながります。二番手で満足するのではなく、トップになるという大きな目標となったのでした。
 もちろん、夢に向かうためには努力は必須。連日のように、全力で1,500mを4本走って…ということで、その結末と思わぬライバルとの争いは、ご挨拶集(第75回)で触れた通りです。

 振り返ると、一人でヨーロッパを放浪したのも、カーメイトに強引に入社させてもらったのも、不可能宣言をされたマシン語を習得したのも…みんな「迷わず行けよ!」の精神と思えるものばかりです。やっぱり、猪木さんは…世界一スゴいッ!!!



〜〜〜〜 ちょっと一言ご挨拶(2023.5.25)〜〜〜〜

 そもそも最初に二番で満足するようになったキッカケは、中学3年での運動会(1964.10.13)における2000m競争にあった。

 これは各クラスから2名の代表を選び、全学年一斉に1周200mのトラックを10周するというゴチャゴチャの長距離レース。運動会そのものがクラス対抗(学年別)だったので、各学年における順位がクラスの得点として加算され、他学年との勝敗は基本的に関係がない。

 優勝候補の筆頭は、生徒会長で野球部のキャプテン、かつ成績優秀で背も高い亀井クン。得点には関係ないが、1年下でキャッチャーをやっていた弟との争いが注目されていた。
 …で、ヒダカ君はといえば最初からそんな亀井兄弟と勝負するつもりなど毛頭ない。しかも、学年別の競争なのだから、下級生には負けても構わないというドライなスタンス。そんな性格がにじみ出るような走りが、少しばかり8mmフィルム映像として残っている。

 ランニングシャツに短パン、そしてハダシというのが15歳のヒダカ君だ。少しでも軽量にして、走る負荷を減らしたいと考えた上での格好だった。

 今では走る姿はボロボロ・ヨレヨレで見る影もないが、全盛期には飛ぶように走っていた(←ような気がする)のだ。この中三のときだって、そこそこ足が空中に浮いている…でしょッ!

 レース結果のほうは、兄の亀井クンが兄弟の争いを制して1位となったのだが、つい最近まで楽勝したものとばかり思っていた。
 エッ、あの亀井クンも苦しいのを我慢して走っていたのか…。知っていれば、もう少し違った気持ちでレースに臨んでいたかもしれなかった。たとえ優勝は無理でも、あわよくば…とチャンスを狙う位置にいるとかネ。

 でも、あとときは最初から学年で2位というのが目標だった。だから、ラストのコーナー付近で必死の下級生に抜かれても、顔を見て同学年ではないことを確認した上で、あえてラストスパートはかけなかった。得点に関係のない順位はどうでもよかったのだ。

 二番じゃダメどころか、闘争心というものがそもそもなかったみたい。基本的にトップに立つ器ではないと自覚していたのだろう。それに、二番手のほうが気が楽だから…。

 そんな亀井クンは、高校でもピッチャーで地区予選の決勝まで残る活躍をしたのだが、その後はお花屋さんとして現在に至っている。すっかり「おじいさん」になってしまったので、もう一緒に走ることはできない…けど、フラワーデザインでは「とちぎマイスター」でもある。

 年齢のせい(←ア、同い年だった)なのか、身長も縮んで中三のときとは逆転してしまったが、あの運動会の記憶は互いに忘れることがない想い出だ。

 だから、今でも売れ残ったお花をわざわざ届けに来てくれたりするし、こちらも収穫した野菜を届けたりしている。たぶん、あの運動会で一緒に走っていなかったら、同じクラスだったという小さな記憶だけで終わっていた…に違いない。