〜〜〜〜 ちょっと一言ご挨拶(2022.2.15)〜〜〜〜
すでに何度か理想の体型として「全盛期のミル・マスカラス」を掲げてきたが、マスカラスが初来日したのは1971年2月のことだ。
そのミステリアスな存在は、月刊『ゴング』誌の「ゴングのマスカラスか、マスカラスのゴングか」という一大キャンペーンによって広く知られていた。ネットのない時代は、プロレス雑誌の記事による影響は絶大だったのだ。
もっとも、貧乏学生がそんな月刊誌を買えるわけもなく、たまに父親が出張帰りに買ったものを内緒で読んだり、書店で立ち読みをして知った情報だ。それでも記憶に残っているのは、その掲載写真の印象が相当に強烈だったのだと思う。
そもそも、当時(大学2〜3年のころ)は自分自身の体型に理想などという大それた野望はなく、どの日本人レスラーがあのようなカッコいい体型になれるか、そんな他人任せの興味だった。
すでにレスラーとして完成されていた猪木さんや馬場さん、あるいは雑誌や東スポなどで見かける若手レスラーに、マスカラスとオーバーラップするような選手はいない。それがマスカラスが唯一無二の存在たりうる所以なのだが、そのころ新人で負けてばかりの藤波辰巳(現・辰爾)選手がいた。
1978年1月のこと。その藤波が、いつの間にか3年に及ぶ海外武者修行を経て、なんとマジソン・スクエア・ガーデンでWWWFジュニアヘビー級ベルトに挑戦したのだ。その映像がテレビで流れたのだが、まさに衝撃の大変貌!
週刊『ゴング』誌より引用
テレビ解説者が「サイボーグのような身体…」と表現したのも印象深かったが、近いうちにミル・マスカラスのような体型になるのでは…と勝手に夢を膨らませていた。
ところで、新日本プログラミングのHP冒頭にある猪木さんとのツー・ショット画像だが、これは蔵前国技館でのラッシャー木村選手との第二戦目を前に撮影してもらったものだ(1981年11月5日)。
ちなみに、第一戦目はラッシャー木村のマイク・パフォーマンスの原点といわれている例の「こんばんは!」の挨拶があった試合…と思い込んでいたが、改めて確認したところ、それは9月23日に田園コロシアムでのマイク・アピールだった。
実は、第一戦目の試合後に本来は会わせてもらえるはずだったのだが、些細な手違いで再セッティングしてもらったという経緯がある。
でも、その日は大荒れの流血試合で、結果も猪木さんが暴走の末に反則負け。こんな試合後の喧騒状況の中では、穏やかに会わせてもらうどころではなかったかもしれない。
そう考えると、多少の騒々しさはあっても、試合前の落ち着いた状況下でよかったと思う。いずれにしても、通常は部外者など絶対に入れない控室。超緊張する…。
入室した瞬間、少し離れた場所から坂口征二さんが不機嫌そうにこちらを見た。低い声で「誰が入れたんだ!」というようなことを言っているようだった。そのときだ…奥の椅子にジッと座っていた猪木さんの目が大きく開いた。
ウワァ、本物だッ!
声には出さねど、それだけでもう感謝感激雨あられ。しかも、大切な知り合いの紹介ということで、肩に手をかけてくれるやさしさ。思い出すだけで、あの興奮が蘇ってくるではないか!?
おっと話が横道にそれてしまったが、次には帰国後にドラゴン・ブームを起こした藤波さんと握手をしてのツー・ショット。これまた、本物ですヨ!
この時期を境にして、藤波選手はジュニアからヘビー級へと転向し、体型もそれに合わせて大きく変化することとなった。
マスカラス的なマッチョを期待していた者には残念だが、こればかりは本人の望む方向で活躍してもらうしかない。それでも、あの身長で外国の大男たちと対等に戦い続けてきたのだから、炎の飛龍と呼ばれる精神力と闘魂には敬服してしまう。
そんなこんなで、いつのころからか夢というのは他人任せではなく「自分で叶えるべきもの」と思うようになった。
これでも根っからの体育会系人間なのだから、下地がまったくのゼロということはない。大学へ入ったころは、どちらかというと細くヒョロッとした体型だったが、トレーニングばかりやらされていた自動車部の下級生時代…。
もちろん、プロレスラーのトレーニングと比べたらお遊びでしかないが、それでも鍛えれば鍛えたなりの変化はある。おまけに、適当に手を抜くという賢さを持ち合わせていない私は、トレーニングに対しても常に全力投球。その結果、他の部員とは少し異なる体型となっていた。
これは1970年の夏。ほぼ1ヶ月に及ぶ軽井沢夏合宿を終え、遠征と称する練習ドライブを兼ねた部内旅行で北海道へ行った際のものだ。神威岬の海で泳いだのだが…寒かったなァ。
軽井沢合宿での2年生の役目は、運転をしに来た練習生に付き添って、一緒に走ったり腕立て伏せをすること。こちらからすれば、練習生という相手が変われど主変わらずの状態だ。
これもまた要領よく間隔を調整して乗り切ってしまうのが普通だが、不器用な私は次々と連続で受け入れてしまう。そんな生活を1ヶ月も続ければ、否応なしに絞り込まれた体型になるのだ。
V字に日焼けした胸元は、炎天下の軽井沢グラウンドで連日暴れた男の勲章。通称「軽井沢ルック」と
呼ばれるが、もちろん当時の自動車部員以外には通用しない。
そんな軽井沢ルックの残った1枚の白黒写真が、後に生涯の目標となる「全盛期のミル・マスカラスの体型」のルーツとなっている…のかもしれない。