■ ご挨拶:第78回(2018年1月10日)■

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 本日のご来場、まことにありがとうございます。一般的に50歳を過ぎるころから、各種OB会や同窓会のような過去形の集まりが増えてきます。人生の点と点におけるギャップを見るのは、それが大きければ大きいほど面白く楽しいもの。外見やキャラクタの変化から、ミッシング・リンクたる空白の時間を推察するのは一種の謎解きゲームに近いものがあります。
 例えば、何の節制もせずに自由気ままに飲食をすれば結果が体型に表れるように、努力した痕跡というのは必ずどこかに出るものなのです。そんな痕跡や未来へ歩む姿勢を見ることで、自らの人生の糧とすることができれば、過去形の集まりが一転して未来形に花開くかもしれません。
 とはいえ、現実には「井の中の蛙」の自慢話大会に成り下がるほうが圧倒的多数です。現在形で何ができるのか、どんな未来へ向かっているのか、そんな夢のある話を語り合いたい…のですが、過去の経歴やら上から目線の浅知恵ばかりでは、聞かされるほうも疲れてしまいます。
 そんなわけで、徐々にこのような集いから足が遠ざかるようになってしまうのも、これまたよくあるパターンといえます。リタイアして悠々自適の暮らし…といっても、単なる消化試合のような不毛の人生もあれば、新たな夢とロマンを追いかけるアグレッシブな人生もあります。どうせなら常に前へ前へと歩み続けたい…とホラにも似た夢を追いかけながら孤高の勇者は行くのです。こうして気持ちが高揚したところで「うたた寝」から目が覚める…ある日の午後でした。。。

 夢から現実に目を移すと、情けないことに走りたくても走れない自分がいます。昨年末のこと、右足ふくらはぎに違和感を覚えながら走っていたところ、擬音でいうなら「ピキ〜ン!」という衝撃が走ったのです。次の日…少し回復したような気がしたので、男・山中鹿之介に七難八苦を与えようと再び無理をしたのが運の尽き。ますます痛みが激しくなって…の結果でした。
 それから三週間。走れないツラさに耐え、ジッと我慢の日々を過ごしたのでした。経験上、こんなときに更なる無理をすれば確実に再発することを学んでいたからです。
 悶々とした思いで新年を迎え、思考回路が少しばかりリフレッシュされたようです。なぜか一流ランナーが練習後に入念なマッサージをしている姿が思い浮かびました。で…上半身の筋トレ後に、両手で右ふくらはぎに丁寧なマッサージをしてから、じっくりと長めのストレッチを繰り返してみたところ…。
 何ということでしょう。同じような「ピキ〜ン!」という擬音とともに、縦に分断していた足の筋がくっついたような感覚(←あくまでも体感イメージ)があったのです。
 それまでのキツい痛みが、まろやかな痛みにウソのように急変し、同時に「これなら走れるのではないか?」と確信をした瞬間でした。こうなれば、その先に待っているのは最大限の気遣いをして走るだけ…。ウキウキしながら元旦の走り初めをしたのでした。
 それから連続して三日間…。次なる「ピキ〜ン!」の擬音が鳴り響かないよう、山中鹿之介を忘れてゆっくりとしたペースでジョッギングを楽しみました。人間…いくつになっても成長する要素があるものですネ。新年早々またひとつ賢くなった自分に…オメデトウゴザイマス!


〜〜〜〜 ちょっと一言ご挨拶(2018.4.30)〜〜〜〜

 この第78回のHPをアップし終えたころ、世間では成人式における「はれのひ」の晴れ着トラブルで大騒ぎとなっていた。…で、ふと思い出したのが1970年(昭和45年)の自分の成人式のこと。
 団塊の世代というだけあって、式は中学校の講堂や体育館など数カ所で分散開催された。会場はスシ詰め超満員で、旧友との偶然の再会など望むべくもない。受付で記念品をもらい、来賓の堅苦しいどうでもいい祝辞を聞かされて…オシマイ。服装は男性はほぼ全員がスーツ姿(もしくは和服)で、晴れ着をまとった女性はおそらく半数程度だった…かなァ?
 そういう意味では成人式が「晴れ着ありきの晴れの日」という論理構造がよく理解できない。そもそも20歳になっただけの節目がなんで晴れの日なの?
 とはいえ、自分が世間に迎合してスーツ姿で参加していたのでは偉そうなことを言えないよネ。言うだけなら誰でもできるッ!
 ということで、そのときの状況証拠を…と思ったが、その前に一浪して大学一年となっていた自身の学生ライフに触れておきたい。あらゆる行動は、そうなるだけの必然の背景があってのこと。そこが不明だと単なる異端児と誤解されてしまうからネ。
 学生ライフの紹介いっても、大学を卒業して最初に就職したラサ商事(現在は一部上場企業だが当時は中堅商社)の社内報(1977年:秋季号)に掲載されたものの転載。その時点ですでに過去の思い出話なのに、さらに40年以上が経過していることを考慮して、いくつかミニ解説を加えてみた。
 改めて振り返ると、そこには昭和ならではの戦後の風情がまだまだ残っているし、明日のことなど何も考えない「行き当たりばったり」の学生がほとんど…だったように思う。すべてがのんびりしていて、ある意味では今より幸せな時代だったかもしれない。

『自動車部バカ』

  オイラは天下の早稲田マン
  心の宿りは自動車部
  朝から晩までつらいけど
  ちょいとやめられぬよいところ
  ア〜ァよいところ
     (※自動車部の唄 一番)

 一年生…自動車部では準部員という。つまり会社でいえば見習社員。クラブの始まりは、あの封建的で恐ろしい入部式から始まる。
 5月のあるのどかな日曜日、何も知らない一年新入部員が入部勧誘時にもらったパンフレットに書いてあるとおり、制服制帽黒ズボン黒革靴(正装)の出で立ちで部室へ向かって明治通りを歩いて行く。天気もいいし、入部式で酒を勧められたらどうしよう…などと考えながら。生来ののん気な上に無知とは恐ろしいもので、とうとう歌まで歌いだした。

トモコちゃん


 小川知子のこと。同じ1949年生まれで、今でいうならトップクラスのアイドル歌手。テレビが一家に一台という時代においては、レコードジャケットの画像が本人のイメージとして独り歩きすることが多かった。
 もちろん歌そのものも「お気に入り」だったけど、このジャケット写真の髪型、そして背景の水色に紺色の服がマッチして、実在する私の理想像として長く君臨していた。できることならその後の人生を知らずにいたかった…というのが現在の正直な心境。

「♪そよ風みたいにしのぶあの人はもう
  私のことなどみんな忘れたかしら…♪」
(※これが結局、彼の4年間のテーマソングとなるのである。それにしても、あのころのトモコちゃんはかわいかった…)

 突然、稲光もなくいきなり肩越しに雷が落ちた。バリバリバリッ!!
…と思いきや
「コラーッ!! キサマ先輩の前を挨拶もせずに通る気かッ!?」
 びっくりして振り向くと、自分と同じ黒づくめの男が仁王立ちに立っている。
 ワ〜ッ…上級生だっ!! エリに白バッジが輝いている(準部員は青バッジ)。
 驚きながらもあわてず騒がず、大頭脳をすばやく回転させ『上級生に会った場合は、いつどこでも大声で「こんにちは」と挨拶すること…』というパンフレットの一項を思い出す。
(注:我々自動車部は応援団や空手部のように「オスッ」とは言わない。通常「チハッ」というが御用聞きのそれとはもちろん違う)

 少し取り乱しながらも…
「こんにちは」
 これで済んだとホッとする間もなく、前にも増して大声で…
「聞こえねェ〜ッ!!」
「コンニチハッ!」
「聞こえねェ〜ッ!!」
「コンニチハッ!」
「聞こえねェヨ〜ッ!!」
「コンニチハッ!」…5回以上もこれを繰り返して、やっと
「よ〜し、この次も大声でやれよ!」
「ハイッ!」
 見れば、部室までまだ200m程もあろうというのに、黒づくめの上級生が10mおきくらいに腕組みをして立っている。そして、同じように
「コンニチハッ!」
「聞こえねェヨー!」
…と大声でやり合っている新入生の姿が見えるではないか。
 入部式の甘い夢は、ここでガタガタと音を立てて崩れてゆく。天下の往来、明治通りで「コンニチハッ!」「聞こえねェヨー!」の怒鳴り合いを繰り返しながら…。

 それが終わると炎天下での入部式。アル・カポネが乗りそうな黒塗りの古いキャデラックや菊のご紋章があったというパッカード・リムジンを背にして、ずらり並んだ上級生が何やら大声で自己紹介をしている。

入部式後の歓迎会


 入部式に至るまでのプロセスが余りに衝撃的だったこともあり、その後の歓迎会でいきなり打ち解けるという気にはなれなかった。それゆえに何より法律違反である飲酒(その時点では19歳)には一滴たりとも応じなかった。
 もちろん、それが上級生にすれば面白くないことであることは百も承知の上で、新入生が示せる唯一の反骨精神だったのだ。
 それでも、それを許容する度量が伝統ある自動車部にはあった…ということで、逆にこちらが大きな器に飲み込まれてしまった。

「○○県立○○高校出身
   早稲田大学○○学部××××!!」

と言っているらしい。らしいというのは、聞くほうにはただ…

「ウワー!! ギャー!! クワーッ!!
      ピエーッ!! ドスエーッ!!」

 いったい何を言っているのか、さっぱりわからない…。

 こうしてノドを痛めた入部式も終わり、しばらくは部にもあまり顔を出さずにおとなしくしていようとするが、そうはさせじと早くも次の集合が待っている。集合とは全員集合のことで、これがかかると何をさて置いても部へ顔を出さなければならない。

 早稲田では『新入生は5月になって初めて真の早稲田マンとなる』と云われているが、これは春の早慶戦を意味する。そして我が自動車部というのは応援団(吹奏楽部)と敷地を同じくしている関係(?)で、ただで早慶戦が見られる。
 しかしこれが高くつくということは火を見るより明白で、我々は朝も早よから紙と竹で作ったフクちゃんのカサ売りをやらされることになるのであった。首から大きな画板をぶら下げ、カサを山のように積んで、千駄ヶ谷駅や信濃町駅前へ出向き、1本でも多く売ろうと涙ぐましい努力をするのであるが、我々に戻るその代償はマズい弁当1つだけで、売り上げはすべて部へ吸い上げられることになっている。

 やってられない〜やってられない…とボヤきながらも夏になる。夏になれば、かの有名な避暑地・軽井沢で地獄の夏合宿がある…ということは1年生は知る術もない。

 四泊五日の軽井沢部員合宿。1年生は電車で軽井沢へ行く。なぜ2年生以上と一緒に車で行けないかというと、後になってわかったことだが、彼らはすでに20日間もそこで合宿を組んでいるからである。そして最後の5日間が1年生用の合宿なのだ。
 駅に着いたばかりの我々は、大勢の人ごみの中、アプト式記念の電気機関車の前で早速怒鳴られる。

「お前ら5分前に集合していたかッ!?」
(注:自動車部ではすべて5分前集合整列である)

 これも後になってわかったことなのだが、ちゃんと偵察隊という見張り役がいて、5分以上前から我々の動きを監視していたのだから始末が悪い。
 とりあえず迎えの大型トラックで合宿所へ…と思うのは甘い考えで、運んでくれるのは荷物だけ。人間は合宿所まで不気味な静けさの中をゾロゾロと行進する。
 20分ほど歩くと、うっそうと茂った林に囲まれて古びた木造の合宿所があった。道路1つ隔てたところに1周600mほどのひょうたん型のグランドがある。そのひょうたん型のグランドの中にはジャングルのような林があり反対側は見えない。一見すると狭そうに見えるが、どうしてどうして中々広い。…ということで、さァ始まった!!

「ウワー!! ギャー!! ギョエーッ!!
        クワーッ!! クエーッ!!」

 今度は怒鳴るだけではない。車でグランドを1周するたびに、グランド3〜5周(もちろん自分の足で)、腕立て伏せ50回、自己紹介10回…等々、コーチャーである3年生に指示される。休む間がないように常に何かをやらされているのだ。
 運転練習というのは建前で、1日のうち車には5回くらいしか乗れない。それも大声で番号をかけたり怒鳴られたりの連続で、1周などアッという間に終わってしまう。そしてまた次の順番が回って来るまで、走って…腕立て伏せをして…怒鳴って…1日目が終わったときには身体中が痛くて痛くて、明日からどうしようと思う。夜、脱走の計画を企てている者もいる。昔は警察に泣きこんだ者もいたとか…。

 そうこうしているうちに、2日目そして3日目となる。このころになると、みなそれぞれに何らかの特徴を出して頑張っている。右足を引きずりカニのように横を向いて走るY君。今にも死にそうな顔をしながらも幽霊のように走るK君。怒鳴ると口が曲がるもう一人のY君。ノドがつぶれてかすれ声で怒鳴るI君。アッ、ついにはぶっ倒れる者が出た。

ぶっ倒れた男


 ゴメンナサイ…これは創作半分・実話半分です。話を面白く膨らませるために、この合宿中の出来事としたけど、さすがにこんな新人部員はいるわけがないよネ。
 ただし、それから2年後(自分自身が3年のとき)にこんな不埒な一般学生がいた…ということを同期の仲間から実話として聞いたのは事実。だから、真っ赤なウソ…ではない。
 ちなみに、この部員合宿前の20日間というのは、体育の授業で自動車を選択した一般学生のための同様の合宿(三泊四日)×4組によるものだ。間に1日の休みを挟み、2・3年生が4組の運転実習授業をする。夏休みの大半を軽井沢での体育授業に協力するからこそ、自動車部は体育会(体育局所属)なのである。
「大丈夫かッ!? しばらくテントで休んでいろ」
…と言われるや、突然立ち上がり一目散にテントまで走って、またひっくり返る。おかしな者も出てくる。
≪ただし、この結末は誰が考えても同じである≫

 ところが、この激しさを何とも思わず(←実はそう見えるだけなのだが)平然と同じこと、イヤそれ以上のことをしているスーパー人間がいる。もちろん筆者ではない。それは昨年の新入部員…2年生である。
 彼らは走るとき、腕立てをするとき、そして自己紹介で怒鳴るとき、常に我々と行動を共にしてくれる。というより、我々はただ彼らにつられてやっているだけなのだ。
 夜は我々より遅くまで車の整備、朝は我々より早起きして車の点検・清掃。昼は我々を引っ張って走り回る。自動車部では彼らをランニングマシーンという。
 だから、1年生はどんなに苦しくても2年生を見れば泣き言を言えない。逆に来年は大変なことになると、先の心配をすることになる。

 それでも、この夏合宿が終わると1年準部員は約半分に減る。そして、次の合宿からは待遇がお客さんではなくなる…。このことは、自分たちで車の整備・点検をしなければならないということを意味する。
 これがまたポンコツ車ばかりの集団だから、想像以上に大仕事なのである。何しろ、20台近くある部車のうち、いつでも動くのは4台くらい。残りの車は合宿のたびに整備をしなければ動いて止まるだけの機能すらない。合宿中でも遠征中でも、お構いなしに重整備〜徹夜整備を余儀なくさせる…。
 その第一歩が秋の五大学フィギュア合宿、全日フィギュア合宿である。このフィギュアというのが自動車部の華でありメインの競技なのだが、当時はこのフィギュア自体、全然面白いとは思わなかった。
(注:フィギュア競技とは極論すると教習所のコースを極端に狭くし、さらにボックス、サークル、スラロームなどを配置したコースを、いかに速く正確に、そして基本操作に忠実に運転できるかを競う自動車部独特のレース)
 しかし、正直なところ1年のときのこの合宿の印象は少ない。このころは倦怠期であったようで、大学の授業のほうに顔を出していたようである。とにかく、自動車部というのは合宿の多いクラブで、真面目に活動すると1年のうち3ケ月は合宿に参加することになる。
 そして冬の館山合宿あたりを境に、以降は改心したように真面目(?)になっていった。それにつれて、部活動のほうも輪をかけて面白く展開していったのである…。

……自動車部では4年間、真面目にやった人を俗に『自動車部バカ』という……

≫≫≫≫ おまけ ≪≪≪≪


 実は大学3年時の夏合宿(一般学生向け)の開講式がテープ録音されており、自己紹介をするシーンが残っている。1年生の自己紹介は、基本的に「…○○学部1年××××です。よろしくお願いしま〜す!」と丁寧に叫ぶが、上級生は上級生らしく上から目線的に名乗る。
 もちろん、私も3年生になればそれなりに偉そうに叫んでいた…ということを承知の上で、あえて「聞いてみたい!」という方は、どうぞこちらから。とりあえず無駄に大声なので、ボリュームは事前に小さくしておくようご注意を…。


 …とマァ、当時の体育会系のクラブには古典的というか封建的な雰囲気が根強く残っていたのだが、自動車部にはいわゆる「しごき」に相当する暴力行為はない。もちろん、そこに上下関係があればパワハラと受け取れないこともないけど、一緒に同じ内容のことをされたら無条件降伏だろう。
 とはいえ、こんなマンガみたいな入部式が可能だったのはそのころまで。自動車の進化だけでなく、学生の興味や生活環境も大きく変化し、それに応じて部活のスタイルや競技も変化をしているのだ。そうして自動車部は現在も伝統ある部として存続しているのである。

 ということで、本題の成人式のほうへ話を戻そう。この制服制帽黒ズボン黒革靴こそ正装…と強烈に教え込まれた私こと新成人は、そんな事情を知らない母親が買ってくれたスーツを着ることもなく、学生服姿で成人式会場へと向かったのであった。もちろん他には誰もいない…。

 内気で、恥ずかしがり屋で、目立たないことが身上の私でも、こういう異端なことができた…という事実と背景にある裏事情。これじゃァ、やっぱり晴れ着を着るほうがノーマルで正論かも…ですネ。

… 成人式後に自宅前で …

(祝日は旗日といい日の丸国旗を玄関前に飾っていた時代)