■ ご挨拶:第74回(2016年10月30日)■

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 本日のご来場、まことにありがとうございます。真面目な勉学には縁遠い私ですが、例の7月末の講演会の1ヶ月ほど前のことです。ふと『論語』の「朋(とも)の遠方より来る有り、また楽しからずや」という一節を思い出したのです。≪注:漢文読みと解釈は複数ある≫

 学生時代にヨーローッパ放浪の大義名分としてイギリスで英会話スクールへ通っていたとき、同じスクールに通うオランダからの若者がいました。彼は2週間コース(私は8週間コース)で、学ぶクラスも異なり普通なら知り合うことはなかったはずです…が、学校帰りに見かけたその顔が、なんと当時活躍していたプロレスラー「ストロング小林」にソックリだったのです。

 これは興味深い…ということで、つい「どっから来たの?」と日本語で尋ねました。彼は怪訝そうな表情で「I am not Japanese!」と答えましたが、エッ…なんで質問が日本語とわかったの?…と話題は展開して、いつの間にか親しい友人になっていたのでした。

 あれから40数年…。最後に会ってから25年ほどの月日が流れました。互いに若者ではなくなってしまいましたが、人生のほんの一瞬を同じ空間で過ごしただけで、これほどまでに楽しい時間となるのは実に不思議なことです。というわけで、冒頭の論語が脳裏をよぎったのでした。

 ところで、その翌月の講演会でも司会担当の福田さん(ゲーム保存協会の理事)が昔の話題を絶妙に引き出してくれ、とても懐かしく楽しい時間を過ごすことができました。

 こんな一般人(←チンパンジー…ではない)のプロフィールに価値があるかどうかはともかく、自動車部の中でもマイナーな競技(フィギュア)についてまで調べた上での質問には、実に頭が下がる思いがしました。自動車部時代の裏話を、部員以外の方にする機会があるとは夢にも思っていなかったので、それだけでうれしかったです。ありがとうございました。

 それ以上に驚いたのは、50名前後の方が私に興味を抱いて来場されたということ。遠方過ぎて来られなかった方もいたそうですが、過去への疑問がまだ残っていたという事実に、これまたビックリ仰天でした。ご意見箱から知らせてもらえれば、HP更新の際に可能な限り回答しますので、何かあれば遠慮なくメールでご連絡ください…ネッ!

 ちなみに、学生時代の友人や自動車部の仲間(特に先輩)などからは、よく「髪の毛を染めているのか?」という遠慮会釈のない質問を受けます。

 年齢を考慮すれば当然なのかもしれませんが、面倒なので最近は「頭は染めてもないしズラでもない!」と宣言してしまうようにしています。目立たないとはいえ、突然変異の白髪は少なからずあるし、髪のボリュームも減少しているのですが、黙っていると逆に「あいつの頭は怪しい」となってしまうがゆえの防衛策です。

 もしかすると、来場者の中にもこんな聞きにくい疑問を抱いた方がいるかもしれません。たとえそんな珍問・愚問でも、決して怒ることはありませんから安心してください。

 そんなことより、わからないことや忘れたことが多すぎることのほうが問題でしょう。森羅万象ありとあらゆることが過去に戻れないよう、私の脳内思考もプログラミングに熱中していた時代に戻ることは不可能です。といっても、ターゲットが別の分野に移行しただけで、現在は現在で思考回路はグルグルと回り続けているのです。人知れず新たな夢に向かって…。


〜〜〜〜 ちょっと一言ご挨拶(2017.2.14)〜〜〜〜

 よくアメリカのことを「人種のるつぼ」と表現するが、イギリスやフランスも同様に「人種のるつぼ」であることは、この放浪以前には実は気づいていなかった。要するに、紳士淑女の国とかベルサイユ宮殿といった言葉のイメージだけで、勝手に国民の姿を妄想していたのだ。

 ところが、戦前の強国というのはアジアやアフリカに多くの植民地を有していたから、そこに人的交流が生まれるのは必然の流れだった。というわけで、このオランダの友人もインドネシアからの移民二世。それゆえに日本人的な顔立ちをしていたのだが、そんな事情よりも「ストロング小林」のほうが世代的には知らない方が多いかもしれない。

 改めて見てみるとそれほど似ていないような気がしないでもないが、スクール帰りに会ったときは直感で似ていると思ってしまったのだ。第三者的にはどうだろうか?

 ストロング小林選手は風貌が猪木さんにも似ているところがあって…と語り出すと終わりが見えなくなってしまうので、プロレス的にはこれ以上触れないでおこう。ちなみに左側にいるのが放浪中の私で、ほとんどこの格好で各地を動き回っていた。

 ところで、かの『マシン語ゲームプログラミング』でブリュッセルの小便小僧に関する逸話があったのを覚えているだろうか。小さ過ぎて気づかずに素通りし、その結果…大通りで小便小僧のマネをして尋ねたら、そこは公衆便所だったという情けない事実。

 ついでだから、その記念写真も公開してしまおう。像が小さいということもあるが、高さが目線よりかなり上に位置しているし、全体的に台座のほうが目立っている感じがする。

 だから改めて現場に戻ってからも、すぐにはわからなかった。周辺をウロウロしながら、交差点の反対側に立って初めて存在に気づいたのだ。まるで、ウォーリーを探せの世界みたい…。

 もちろん、ガイドブックには全貌ではなく像本体の写真しか載っていないから、それはそれで別の小さな感動を与えてくれた。そういう経緯があったからこそ、印象深く覚えているんだね。

 参考までにGoogle Mapで現在の状況を見てみたら…観光客でいっぱい。とてもじゃないが、こんな写真は撮れそうにない。あの当時(1973年)は見ている人なんて誰もいなかったのに…と妙なところで時代を感じたのであった。


〜〜〜〜 さらに一言ご挨拶(2024.5.14)〜〜〜〜

 イギリスで英会話スクールに通った8週間で、実力はどれだけアップしたかというと、実はそれほどの向上があったとは思っていない。勉強という意味では、大学入試のために費やした時間のほうがよほど長かったからだ。

 最大の違いは、いわゆる外人コンプレックスがなくなったこと。現在と違って、当時の日本では外国人に出会うことなどほとんどない。それだけに、心理的な緊張が先立って、自信のない英語では会話の思考回路が働かないのだ。少なくとも、スクールに通うまでは…ネ。

 でも、スクールに行けば英語のできない同レベルの人たちばかり。年齢こそ多少の幅はあったものの、イタリアやスイス、オランダ、西ドイツ、スウェーデン、ペルー…など、自分を含めてみんなが英語に不慣れな外人という立場なのだ。

 すぐに知り合いになって、いろいろな話をするようになるのに時間はかからなかった。たいていは相互に出身国を聞くところから始まるのだが、その中にドローレスというスペインから来た若い女性がいた。いつもテンションが高く、明るく華やかで…いかにも陽気なスペイン人という雰囲気が漂う目立つ存在だった。

 もちろん、だからといって特別な感情を抱くこともなく、偶然に隣の席になったときのこと。軽い挨拶のつもりで「1つだけ知っているスペイン語があるヨ!」と胸を張った。

 ベサメムーチョ!

 これは、幼少(←たぶん小学校低学年)のころ、現在管理をしている実家近くのお姉さん(←今では高齢のお婆さん)が、編み物をしながらよく歌っていた曲だ。それがなぜスペイン語とわかったのか、そこのところはナゾでしかない。とにかく1960年前後の日本で流行っていたのだ。

 すると、ドローレスはビックリした表情で顔を赤らめながら「その意味を知っているの?」と聞いてきた。もちろん曲名以上のことを知るワケもない。平然と「知らない…」と答える。

 さもありなん…と思ったかもしれない。それは「Kiss me more!」という意味だと、驚いたまま真顔で教えてくれた。今度は、こちらが逆に驚いて真っ赤になってしまう。いかに知らないとはいえ、さすがに恥ずかしくて…生涯記憶から消えない一瞬となったのであった。

 …とマァ、こんな珍体験を重ねながら外人コンプレックスもなくなり、下手なりに平常心で話せるようになっていく。ここでの会話も、もちろん日本語ではなく互いに英語。先生と生徒という関係ではないからこそ、瞬時に思いつく英語で感情を表現するのが勉強となるのだ。

 実際、スクールで学んだ教科書的会話よりも、こういった雑談レベルの話ができる環境こそ価値があったような気がしてならない。学校そのものは、平均的な英国長屋ともいえる住宅を改装しただけのプライベート・スクール。でも、若き日の別次元の想い出として深く心に刻まれている。

 この写真はスクール最終日に撮ったものだ。あれから半世紀余り…現地はどうなっているのだろうかと気にかかる。

 ということで、Googleで調べてみたところ、10年ほど前の画像ではあるものの建物はそのままの状態で残されていた。フェンスのペンキこそ青く塗り直されているけど、あの瞬間あの場所にいたのは紛れもない事実。それを確認できただけで、なぜかとってもうれしくなってしまう。

 ちなみに、ドローレスの顔写真はスクール最終日に、数軒先にあったcanteen(いわゆる学食)で全員で撮った集合写真からピックアップしたものだ。もちろん、その後の消息はまったく知らない。元気でいるならば、70歳前後の陽気なお婆さんになっている…だろう。