今を遡ること40数年前…正確にはカーメイトに入社する2ヶ月前(1980年10月)から、トレーニングで走るタイムをノートに記録するようになった。それまではカレンダーや紙切れに書き捨てていたので、大半の練習日/タイムは記憶にも残っていない。
どうでもいいことだけど、このころ計測のスタート地点としていたのは、少し離れたところにあるお稲荷さんみたいな小さな神社。いつも「いい会社に就職できますように」と願掛けをしてから走り出していた。
ちなみに、お賽銭は1円玉1枚。これを格子扉の中に投げ入れたお蔭(←かどうかは不明)で、運命に導かれるようにカーメイトに入社することになったのだ。もちろん、その時点ではプログラミング・ワールドが未来に待っているとは知る由もない。
この記録ノートには、強風とか膝痛など特記事項があれば書き足してあるが、極端な体重変化もその対象だ。調べてみると、当時の最小体重は驚きの58.5kg!
これは、学生時代にヨーロッパ放浪の旅からガリガリで帰国したときとほぼ同じ。それを56歳で再現したのだから、かなり無理をしていたに違いない。ただ走るのには好都合でも、これでは「全盛期のミル・マスカラスの体型」が遠ざかる。このバランスが、どうにも悩みどころなのだ。
ということで、体重といえば減量がセットのようなボクシングの世界。デビュー戦でのKO勝利の影響もあって、第二戦では応援のほうも格段に華やかで盛り上がっていた。
とはいえ、こちらの立場はあくまでも身内の伯父さん。前回のように、早めに来場して観客のいない会場で静かに記念のポーズ写真を撮った。冷めているのかもしれないが、どちらかというと試合そのものより、こんな静寂の中にボクシング本来の厳しさを感じる。
デビュー戦ではKOシーンを取り損なったり、古いデジカメのせい(←設定ミスかも?)で動画の画質も悪かった。いかに素人カメラマンとはいえ、同じミスを繰り返すわけにはいかない。
そこで、この試合に合わせて新たにビデオカメラを購入した。タイミング的にはハイビジョン化への過渡期と重なり、将来性のない買い物のような気がしたのだが、ここは仕方があるまい…そういう役目の伯父さんだから。
そういえば、これまた伯父として気持ちばかりのご祝儀を渡していたのだが、本人から「どうせならリング上で激励賞として受け取りたい」という要望があった。そんなことから、試合前にリングアナに手渡すようにしたももこの試合からだ。
しょせん、プロとはいえボクシング用品は自前で揃えなければならないし、さらにはチケット販売のノルマもあると聞く。栄光のリングで試合をするのも楽じゃないのだ。よく本物のリングに上がるまで頑張ったと思う。
圭のほうは、私が格闘技が好きだから応援に来てくれたと感じていたようだが、猪木さんの試合でさえチケットを買って見に行ったのは一度だけ。スポットの当たる一般観客向けの表舞台には、本質的に興味がないのだ。
大切なのは、スポーツに限らずどこかに向かうプロセスとエネルギー。表舞台とは、それを第三者に想像し感じてもらうための表現場所に過ぎない。
猪木さんは、プロレスを通じて何事にも負けない不屈の「燃える闘魂」を感じさせてくれた。プロボクサーとして、格闘技の聖地・後楽園ホールのリングの上で、遠藤 圭選手はボクシングを通じて何を表現しようとしていたのだろうか。そこに、この伯父さんの目線はあった…。