田舎のタケノコが「出るわ出るわ!」とあるが、これは前年(2003年)3月に父親が亡くなったことにより、最長老としてあらゆる雑用と管理を託されたことによるものだ。すべてのものをチェックして整理して…ということで、とにかく時間と手間がかかる。
でも、故きを訪ねて新しきを知るというように、そうした作業により得た知識は多岐に渡り、それはそれでプログラミング的な面白さと楽しさがあった、どんなことでも、正面から全力で向き合うところには福来たる…かな?
ということで、かの『隣人』誌の表紙を開くと、カラー写真が全4ページ。そのすべてをこの「マイジョブ」が独占しており、それだけで意気込みが伝わってくる。
ギョギョッ…いきなりの大アップ写真! だが、貴重なのは私ではない。これが1985年3月20日現在のエニックスの開発ルームであったということ。場所は新宿区西新宿にあるヒノデビル(←まだ存在している)の狭いフロアだ。
窓際そして私を挟んだ両サイドには、所狭しとパソコンが並べられている。そんなことから、単純に開発ルームと表現したが、厳密にはここは製品開発のためのスペースではない。個人が開発したものを持ち寄って、社員が評価したりデバッグをするための場所なのだ。
手前には打ち合わせなどの会議室、そしてその奥には営業や事務社員のための部屋、さらには社長室…と、ワンフロアがパーテーションで細かく区切られていた。
2ページ目の会議室での写真には、入社早々の保坂氏(現マッグガーデン社長)や、私のとりあえずのマネージャーとなった曽根氏の姿が見える。
もちろん、これは打ち合わせをしているフリをしているだけで、実際には何もしていない。手前にいる後姿の男性は、単に員数合わせのために呼ばれたバイト(あるいは何かの開発者)だ。こうした記事の写真というのは、たいていは演出されたものなである。
3ページ目には、技術的なことを担当していた望月氏がゲーム操作をしている写真がある。年齢が近かったこともあり、開発環境を見たいと自宅まで訪ねて来たり、ゲームを知らない私に参考になりそうなゲームを貸してくれたり、何かと親切に接してくれた。残念なことに、退職後に若くして亡くなられたそうだ。
たったこれだけの小さな画像にも、そこにはいろいろな人間模様が秘められている。そして、それは当事者以外には知る由もないゲーム史の一コマなのである。
最後のページは、コンピュータ・ゲームの世界を編集部なりの視点で伝えたかったのだろう。本編とは無関係だが、これも1985年におけるゲーム産業の表面に出ている姿。よく見ると、最先端であるはずのゲームセンターのマシンには、なんと「VIDEO GAME」と書いてある。
いかにこの時代がゲーム産業にとって黎明期であったか、開発風景のみならず昭和の香りがそこかしこから見て取れる。その40年後なんて…生きていることさえ想像もしなかった。