2004年というと、そんなに大昔という認識ではないのだが、光ファイバーはエリア限定のサービスであり、地域によって開通を待ちわびていた時代だった。
アクセスポイントに電話をかけてのネット接続は、とにかく遅いの一言。そこで、電話回線の上り下りで転送割合を変えるADSLが登場したのだが、これまた回線が銅線でないとダメとか、何かと問題が多くて悩まされていたなァ…。
そんな悩める『ご挨拶』の昔話はさて置き、解体のほうは開始から1年ほどが経過して、外観的にはかなりスッキリして風通しもよくなった。当初の予定よりもペースは遅いが、とりあえずは許容範囲の進捗状況と考えてよいだろう。
土埃にまみれながらも天井は完全に消滅したし、床板も残り少なくなった。最後に屋根のトタン板を剥がせばオシマイかな、と内心ホッとしていた…のだが。
トタンを剥がし始めて、初めて気づいた衝撃の事実。実は、これは単なるトタン屋根ではなく、初代の屋根をトタン板で覆った二重構造だったのだ。今でいうカバー工法…。
明治時代の中ごろの地方の町といえば、まだまだ生活様式はほぼ江戸時代の延長線。一般家屋の屋根といえば、当然のごとく茅葺きが中心であった。しかし、ここでトタン屋根の下から現れたのは数千枚(←正確には不明)にも及ぶ短冊状の板だった。
40cm前後の細長い板が、少しずつズレた状態で重なり合い、屋根一面を覆い尽くしている。それを固定しているのは、これまた大量の釘。ヒェ〜ッ…どうしよう。
どうしよう…と嘆いても誰も助けてはくれない。1本1本釘を抜き、板を1枚1枚剥がしていく以外に解決策はないのだ。
このような屋根は「こけら葺き」といい伝統ある手法らしいのだが、そこまで立派な造りにしなくてもよかったのでは…ネェ、ひいおじいさん。と、あまりの手の凝りように、ついつい語りかけてしまうのであった。
せめて鉄釘ではなく竹釘が使われていれば楽だったのだが、グチは言うまいこぼすまい。言ったところで、何の手助けにもならない。そんなことより、せめて1日一畳(できれば一畳半)を剥がすことだけを考える。何しろ、ここは屋根の上なのだ。
そう…ここは曲がりなりにも屋根の上。おまけに、トタンでカバーしたのには相応の理由があってのことなのだ。下地の板も支える角材も、アチコチで腐ったり傷んでいる。用心していても、何度も長靴ごとズボッとなったほど。ホント、一瞬たりとも気を緩められない。
そんなこんなで、屋根の上で板と釘を仕分けして地道に降ろすこと4か月。完全に想定外の長丁場となってしまったが、どうにかこうにか屋根もすべてなくなった。
最終的には、夏に始まり翌々年の春まで、1年半以上の年月を要したことになる。現在残っているのは、主要な柱と交錯する梁だけ。さすがに何の跡形もない状態では、リフォームの域を出てしまうと思ったからだが、いざ現実となるとそうそう甘いいものではないらしい。
リフォームと再建築…そこに明確な線引きはないようなのだが、その判断は担当官に委ねられているとのこと。建築業者サイドからすれば、後々指摘を受けるような可能性があれば、それは事前に回避したいのは当然のことだろう。
素人判断では、基礎の部分が腐って「倒壊の恐れあり」なのだから、基礎から打ち直すのが必然のリフォームと考えていたのだが、現状を見るともはや再建築の領域なんだって…サ。アレマ、またしても「どうしよう」の気分。
マ、それならそれで思い切ったことができるし、そのうち何とかなるだろう。いちおう、最終的にどうするかという夢に変わりはないので、その夢に向かって進むしかない。
エッ、その夢が何かって? 50年来の夢が実現できるかどうか、それはいずれ実現できたときに明らかにすることにしよう。まだ先行きの見通しが立っていない段階で、そんなことをベラベラと語れば夢ではなくホラになってしまうから…。