特殊な事情がない限り、誰にでも祖父母は二人ずついるはずだが、私は生前の祖父の存在をまったく知らない。父方の祖父は私が生まれる前に、そして母方の祖父は1歳のときに亡くなっているからだ。時代の違いはあれど、願わくばヒコーキで遊んでもらいたかった…ネ。
さらに、父方の祖父については多少は伝え聞いているが、母方の祖父に関しては何も知らされていないも同然なのだ。いったい、どんな人物だったのだろう?
知っているのは海軍の兵士だったということ。職業柄、おそらくは家を留守にすることも多かったに違いない。そんなことから、第一次大戦後(1919年)に横浜で生まれた私の母親は、客観的に見ればかなり複雑な環境下で育っている。
それでも、人間としての道を外さずに成長エネルギーの大半を勉学に向けていたようだ。そのことは、結果として東京女子師範学校(現在のお茶の水女子大学)理科を卒業したことでもわかる。安易に女性が大学に行ける時代ではなかったのだ。
そこに家庭環境の複雑さが加わったこともあり、母方の詳しい家系は、まるでオブラートにくるまれたようにやんわりと閉ざされていた。
決して秘密にしていたというわけではないのだが、自ら積極的に語ろうともしない。人的往来や交流もゼロではないのだが、子供目線では親戚も親しい知人も区別がつかない。そんな母親が、生涯隠すように大切に保管していた写真があった。
日付は1925(大正14)年7月24日。まだ写真が貴重な時代に、横浜に現存する前川写真館で撮影されたものだ。一見すると、幸せそうな大家族写真にしか見えないが、いったいここに写っているのは誰なのだろう? 疑問は大きく膨らむが、調べる術がないまま月日だけが流れていった…。
そして、つい最近(2023年の夏)になって…年齢がそうさせたのだろうか、見知らぬ母方の祖父のお墓参りをしたいと思うようになったのだ。
残念なことに、足利にあるお寺を捜し出して訪ねたものの、時すでに遅し。お墓が移転したという情報より先へ進むことはできなかった。もちろん、この写真についても複数の親戚筋に問い合わせてみたけど、100年も前のことを知る人など誰一人としていない。
そこで手掛かりとして思いついたのが戸籍謄本の存在だった。何度も横浜や足利に出向き、祖父母だけでなく関連する家族の出生を丁寧に調べ上げた。
その結果、母親から聞いていたわずかな情報なども参考にして、すべての人物の氏名・年齢・関係が判明した。これは、決して一家団欒の記念写真などではなかったのだ。
とりあえず、後方で立っている男性が私の祖父(石川二一郎:39歳)。そして、その前で父親に甘えようともせずに遠くを見つめているのが私の母(石川 密:6歳)だ。当然、若かりし祖母もいるけど、ここでは残る詳細については触れないでおこう。
この撮影からほどなくして、祖父は日韓併合下の朝鮮に新天地を求めて移住をしている。そこに至る心境は知る由もないが、察するにこれは日本での最後の思い出。そして、最後のお別れとなることを覚悟しての撮影だったのだろう。
聞くところによると、朝鮮ではかなりよい暮らしをしていたそうだが、やがて第二次世界大戦〜そして終戦。すべてを失い、故郷・足利に命からがら戻らざるを得なかったという。
この結果を恐れない無鉄砲で未来志向的な性格、色黒で二重のクリッとした眼差しには、どこかしら近いものを感じる。ついでに体型が右肩下がりなところも…。
トレーニング好きだったかどうかは不明だが、少なくとも私のDNAの1/4は祖父(石川二一郎)から受け継いだもの。遅きに失した面もあるが、遅ればせながら追いかけた1枚の写真から、これまでのミッシングリンクのナゾを解いたのであった。