◆人脈の中で

 たかが売れない1本の作品であったが、この作品を巡っていくつもの「出会い」があった。だが、それがすぐに人脈となるわけではない。ビジネスにおける人脈は、相手にメリットを出すことが絶対の条件。このまま何もせずに新たな展開が起きるほど、ビジネスの世界は甘くない。
 さて、カー用品メーカーを退職した私は、別のオリジナル作品を持ってエニックスを訪ねた。つまり、エニックスのモノを売る広告を見て、私が自分のモノを売りに行ったのである。いうなれば、逆の立場の逆営業というわけだ。ここでも、この作品『マジックガーデン』については触れない。そんなことより、そこで見たワープロソフトを使っている光景に、私は目をランランと輝かせていたのであった。

 それは、PC-8801上で動く「ユーカラ」というワープロソフトだった。ゲーム以外に88が使える…という驚きは、そのまま文章を書いてみたいという衝動に変わった。では、何を書こうか?
 いくらワープロに興味がわいても、テーマがなければ書くことはできない。そうだ!? 自分がマシン語でゲームを作るとき、教えてくれる本がなくて苦労したから、それをアテーマにすればいい…。
 思いつくと、すぐ実行に移そうとするのは私の性格。もちろん、こういうタイプは失敗も多い。しかし、すぐに挫折から立ち直ってしまうので、いくら失敗しても懲りることがない。そんなわけで、数枚の原稿を書いたところで、大きな人脈であるはずの電波新聞社に話を持ちかけた。
 だが、結局はそこで「出会い」を生かすことはできなかったのである。単行本として出版することについては、互いに異論はなかったが、私の投げたボールに対しての返球に魅力がない。つまり、キャッチボールを続けようという気にならないのだ。
 具体的にどう…どはいえないが、とにかく大きな波長の違いを感じたのである。こういうときは、無理をしないほうがいい。営業はいつでもできる。私は、出版先未定のまま、とりあえず原稿の完成を目指すことにした。


★エニックス★
 当時のエニックスは西新宿にあるヒノデビルという細長いペンシルビルの中にあった。狭いフロアでは、担当の社員やバイトスタッフが夜遅くまでデバッグをしていた。世間的にはゲームソフトを開発するソフトハウスと認識されがちだが、製作そのものは外部スタッフが担当しており社内にプログラマーはいない。つまり実態はソフトハウスではなくパブリッシャーなのである。
 したがって、ゲームコンテストを通じて集めたいのは、表面的にはオリジナルのゲームであっても、本意はプログラマーという貴重な人材をキャッチすること。もちろん、それは企画作品への参加や移植業務を依頼するため…ということで、仕事としての魅力を伝えなければならない。それが、このような雑誌広告にも表れている。

※『Oh! PC』1984年7月号掲載の広告

 いかにもアメリカンドリーム的な内容だが、これによって人生の歯車を狂わされた…と断定することもできないが、トップがこうなら二番手・三番手・四番手あたりでも、そこそこの高収入を得られるのではないかと考えられても不思議ではない。実際、それによって安定したサラリーマン生活にピリオドを打ち、この業界でもがき苦しんだ人も少なからずいたのだ。
 現在でもそうだが、ゲームソフトというのはトップ以外は一握りの中堅と枝を賑わすだけの枯れ木で構成されている。いつの時代も、どんな業界でも、枯れ木だけで生きていくことはできない。
 そういう意味で、この広告には当初の意図とは異なった批判も一部にはあった。もちろんモデルとなった本人には何の罪も責任もないし、そこに偽りや誇張があったわけでもない。ただ、結果としてこうした広告の掲載は、このとき以降二度となかったのである。