◆営業結果

 私の最初の作品『ホーンテッド・ケイブ』は、あるカー用品メーカーで営業をしているとき、ふとしたキッカケで生まれた製品だ。典型的な文化系の営業マンが、なぜパソコンソフトを作ることになったかという経緯は、すでに当HP内の『闘魂伝説』で披露したので省略。ここでは、その製品からどのようにして人脈が形成されたかがテーマである。
 とにかく、プログラムを組んだのが一人なら、売るのも私一人の仕事。会社側がしてくれたのは、いわゆる製品化(パッケージング)と広告デザインだけだった。営業しようにも、カー用品メーカーにパソコンソフトの販路や販売ノウハウはない。とりあえず、ソフトを卸す代理店を探さなければならない……ということで、雑誌や新聞で得た知識をもとに、大手と思えた日本ソフトバンクと電波新聞社を候補に選んだ。まずは、ジーコジーコ……いやピッポッパと電話をかける。
 だが、日本ソフトバンクのほうはあまり乗り気ではなく、会って話をするには至らなかった。それに対して、電波新聞社のほうは「日本ソフトバンクと競合しないのなら……」という条件で、意外にもアッサリと決まったのである。何より、ゲーム自体の内容が好評だったし、足を運ぶうちに多くの関係者との面識もできた。
 販路が決まれば、次は広告を打たなければならない。当時(1984年)はパソコン雑誌も黎明期にあったので、今では見かけなくなってしまったタイトルが数多く店頭に並んでいた。その中から、ビッグな存在に思えた『Oh! PC』と『I/O』に2ヶ月間の広告を掲載することにした。このあたり、現在とは状況がかなり異なっており、この2誌へ依存するゲームソフトの数は多かったのである。
 だが、それでどの程度売れるものなのか。な〜んにもわからない状態では、会社としてもそれ以上のおカネは出せない。まだまだ、会社側にも「できないと思っていたものをホントに作ってしまった!?」という誤算にも似た迷いがあったのだ。

 そして、いざ発売。ガ〜ンガン売れる……はずが、ゼ〜ンゼン売れない。そりゃ、ある程度は売れたけど、とてもニュービジネスにするほどのものではなかったのだ。そんなわけで、会社はパソコンソフトから撤退を決意し、私は会社からの撤退を決意したのであった。


★ソフトバンク★
 現在ではIT業界の最大手となったソフトバンクだが、そもそもは孫さんが留学中に開発した自動翻訳機の権利をシャープに売って得た資金を元手に、1981年にソフトウェアの流通業を始めたのが原点だ。パソコン自体が黎明期だったこともあり、秋葉原などのマニアックな電気店が開発者から買い取ったゲームソフトを細々と販売していたころだ。
 ただ、この時期のソフトバンクはビジネス的に困難な状況にあり、話題となった「社長求む!」の広告を出してまで立て直しを図っていた。そのため、あえて「新規に取引をするのはためらっていた」というのが業界ではよく知られた話だ。
 ようやく初代のPC-9801が発売になったが、まだまだ実用に耐えうる本格的なビジネスソフトは皆無という時代。パソコンの将来性に未来を夢見ていた人々も、今日のような必須の文明の利器になることまでは想定していなかったに違いない。ましてや、かくも便利なネット社会がやってくるとは…ただただ驚くばかりだ。
 面白いことに、かのエニックス(現スクエア・エニックス)もほぼ同時期(1982年)にソフトウェアの流通を目指して創業している。ただし、こちらのほうは業界初のゲームコンテストを大々的に開催し、自社ソフトウェアをメイン商品に据えて参入している。こんな手探りの時代に、偶然とはいえパソコンに巡り合えたことを私はとても幸運に思っている。